いつもと同じように出社した三浦知基(みうらともき)は、自分のデスクの上へ置かれてある小さな赤い包みに気が付いた。フロアに人はまばらで、向かいの席に座る上司で恋人の遠野隆史(とおのたかし)もまだ出社していない。一体誰がこれを置いたのかと辺りを窺う。そして神妙な面持ちで小さな箱を手にした。
(カードも何もない)
誰も来ないうちに中を見てしまおうと思い、スーツのポケットへそれを突っ込んだ。いつもこういうプレゼントを貰うときは本人が直接持ってくるか、差出人のカードが付いている。
三浦は社内でも1、2を争うイケメンと呼ばれる容姿だ。入社してすぐに、女子の間では『王子』と名前が付くくらいだ。垂れ目気味の甘い目元と栗色のサラサラな髪。そしてモデルのようなスラリとした身長に、纏う雰囲気は包み込むように温かい。そんな三浦が微笑むと、女性みんな瞳をハートにする。
だが実際、三浦はゲイだし、恋人が上司の遠野だという事も知らない。三浦の気を引くために、あれやこれやとプレゼントの類いをもらうのはよくある事だった。
とにかく、遠野だけには見られてはダメだと思い、そのままトイレへと足を向けた。
個室に入って一息つくと、三浦はポケットから包みを取り出した。赤い包装紙に金色のリボンが掛かっている。明らかに女性からのものだ。
慎重にリボンを解き箱の中を開ける。アクセサリーの類いが入っているのかと思えば、その箱には似つかわしくないものが見えた。銀色で分厚くリングでも何でもない、どこかの家の鍵のようだった。
「え……、なんだこりゃ」
意表を突かれた三浦は、脱力したようにその場に座り込んだのだった。
三浦が上司である遠野と恋人関係になったのは、去年のクリスマスの事だ。仕事が出来、上司で尊敬をしていた彼と、まさかそこまで進展するとは予想だにしていなかった。自棄になってキスをした事がきっかけだったが、今となってはどんな理由でも、結果オーライならいいと思っている。
彼のデスクはいつも散らかっているし、無精ひげも日常茶飯事。元の素材がいいだけに歯がゆい気持ちで見ている事が多い。見た目はだらしなくいい加減に見える遠野だったが、とても優秀な営業マンだ。
身なりをキチンとすれば、彼は化けるように格好良くなるのを知っている。それもそのはずだ。あの切れ長の瞳に高身長で形のいい締まった全身の筋肉。シンメトリーな面持ちと、どこか野性味のある口元はいつも色気を漂わせている。
それをいち早く発見した三浦は、近付いてくる女子を何とか排除しようと躍起になった。分かる人には分かる遠野の魅力。今はそれを恋人という立場で一人独占している。
物心ついた頃から男性が恋愛対象だった三浦と違い、遠野の恋愛対象は女性だ。生粋のノンケである。なのに、三浦自身にだけはそういう気持ちを持ってくれた。今でもそれは信じられない事だった。彼の気持ちを疑うつもりはないが、不安はいつだって沸いて出る。
同じゲイの人間と付き合う以上に嫉妬の対象は多くなり、その度に胸が痛くなるのだ。何もかもを承知で恋人になったのに、独占欲は日に日に濃くなっていくばかりだった。
「おはよう」
デスクでデータを入力している後ろから、聞き慣れた声が耳に入る。出社してからずっと三浦の頭の中をいっぱいにしている人の声だ。
「おはようございます。遠野さん」
「お前は相変わらず早いな。そんなに仕事が好きか?」
「好きなわけないですよ。いつもは遠野さんの方が早いでしょう?」
「俺は家に帰ってないだけだ」
そんな会話をしながら、視線は静かに遠野を追っている。少し着崩したスーツ姿は妙に色っぽい。そう感じるのは彼への気持ちがある贔屓目だ。近くを通ればふわりとトワレの香りがする。無精髭はそのままだが、今日は緩い癖毛を撫でつけるように整えていた。
(珍しい、髪、セットしてる)
三浦の前にある、書類の山のに囲まれたデスクへと遠野が座る。その席から見えるのは彼の頭の先くらいだ。顔を見て話すには、どちらかが立ち上がらなければならない。
「三浦、今日はお前、外回りで直帰だったよな?」
「あ、はい。海藤設備さんに行きますが、社に戻ってくる時間はないと思います」
「そうか、分かった」
なにか頼もうと思っていた仕事でもあるのか、その後の彼の言葉を待ってみるが、何も言ってこない。一体何の確認だったのか分からなかった。
そして、分からないといえば、今朝の小さなプレゼントの中身もそうだ。もしかして渡す相手のデスクを間違ったのではないだろうか、と思った。しかし周囲には該当する人間はいなさそうだ。ましてや女子社員が突然遠野にこんなものを渡すわけもないだろうし、処分に困ってしまう。
三浦はため息を吐きながら書類を作成していた。鍵だけに、その辺に捨てるわけもいかない。かといって、落とし物です、と総務に届けるにも微妙だ。
(遠野さんに相談してみるか)
彼が仕事前の前に一服するのを知っている。三浦は様子を窺いながら、恋人が立ち上がるのを待った。
「さて、仕事前の一本、行ってくるか」
遠野が立ち上がり、そのタイミングで三浦も席を立つ。目の端で彼に意識されているのを少し照れくさく感じながら、静かに歩み寄った。
「あの、遠野さん。すみません、ちょっと相談があるんです」
小さな声で耳打ちすれば、なんだ? と彼は首を傾げた。そのまま喫煙ルームへは向かわず、あまり人の来ない下の階のトイレへと連れ込んだ。
「何だよ……、タバコ吸いながらじゃダメなのか? お前、いつも俺の後を付いて来るだろ? 俺の貴重な朝の時間を……」
「今日はダメなんですっ。誰にも聞かれたくないので!」
そう言いながら、三浦はトイレの個室に遠野を押し込み、自分も一緒に入った。
相変わらずこの個室は色々と思い出させる場所だ。自棄になって遠野にキスをしたのもトイレの個室だった。
「なんだ? またキスして欲しいのか?」
少しボンヤリと考えていた三浦は、あっという間に壁へと追い詰められた。急接近する彼の脂下がった顔に頬を熱くする。恋人という立場になってから、彼はめきめきとその頭角を現していた。
男性とのセックスが初めてだったにもかかわらず、今や恐ろしいくらいに上達し、毎回ベッドで三浦を泣かせるほどの手腕になった。そのエロさ加減もさる事ながら、動物並みの順応性に頭を抱える。彼がこんなにもセックスに対してベタ甘でしつこいとは考えもしなかった。その予想は三浦のそれを遥かに上回っている。
「ちょっ……、と、遠野さ……っ、んんっ……、ふっ」
違う、と言おうとした口を塞がれた。掴まれている腕が熱くてドキドキしている。すぐに舌が侵入してきて咥内を舐め回された。目の前にある彼のぼやけた瞳が、こちらを見つめている。くちゅ……と朝にはそぐわない音が聞こえた。濃厚で深い口付けに流され、カクンと腰の力が抜ける。
「おっと……、危ないな」
「……はっ、あっ……、遠野さんが……悪いんでしょう」
その場に座り込みそうになった腰が支えられる。遠野が唾液に濡れた自分の唇を意味深に舐めた。挑発的で色めいた瞳を向けられながら、意識的に三浦を煽ってくる。この人はいつからこんな風になったのだろうかと、頭が痛くなった。
「お前がこんな所に誘い込むからだろ。朝からサカってるのか?」
「馬鹿なこと言わないでください。相談があって、ここに来たんです」
「相談? 誰かに告白でもされたのか?」
「まさか……。ああ、でもそれに似たような事かも知れないですけど」
「…………」
スーツのポケットに手を入れ、小さな小箱を出す。そして彼の目の前でパカッと開けた。
「これです。今朝、俺が出社したらデスクの上に置いてあったんですよ。カードも何も付いていなくて、誰からのものか分からないんです。鍵なので捨てるのもどうかと思って……」
三浦が説明をしていると、なぜか難しい顔になった遠野は、考え込むように顎に手を当て唸った。
「な、なんです? こういう事しそうな相手、心当たりあるんですか?」
「……ある」
「えっ! だ、誰ですか。俺、こういうの貰っても困るので、波風が立たないように返したいんです」
「困るのか?」
遠野からのおかしな質問に言葉に詰まった。少しは嫉妬でもしてくれたらいいな、という淡い感情はあったが、今の彼からは全く感じ取れない。それどころか怪訝そうに、眉間に深い皺を作っていた。
「と、遠野さん?」
「困るのか? って聞いてるんだ」
「え、いや……。相手が分からない事には、こんなものもらえないじゃないですか。というか、知らない人の家の鍵を貰っても、扱いに困ります」
「知ってる人なら、いいのか?」
「え?」
彼が何を言いたいのか全く分からずに、男子トイレの個室で男が二人向かい合っている。一人は難しい顔をし、一人はジュエリーボックスに入った知らない人の家の鍵を相手に見せ、しばらく空気が止まった。
「それは、俺の家の鍵だ」
「…………、はい?」
三浦の知らない外国語を遠野が話したようで、なんですか? ともう一度聞いた。
「だから、それは俺の家の鍵だ。合い鍵をお前に渡したかったんだ。仮にも、恋人という立場だし、そういうのを持っていてもいいんじゃないかと、思ったんだ。それにその、クリスマス、お前に何も返してないだろ?」
急に恥ずかしそうにする遠野を見つめたまま、三浦はポカンと口を開けて固まっていた。箱の中の鍵と遠野の顔を交互に見つめ、数秒後には三浦の驚く声が男子トイレに響き渡った。
「なあ、機嫌直せよ」
向かいのデスクから声をかけられたが、三浦は完全に遠野を無視していた。乱暴にキーボードを叩き書類を作成している。
『どうしてちゃんと差出人のカードを付けないんですか!』
三浦は遠野へ社内チャットを送信した。こんな事を口頭で話せるわけがない。社内のチャットですら監視されていたりするので、二人の関係性を仄めかす内容でも気をつかう。
「どうしてって、そりゃあ、なあ?」
『あなたが差出人カードを一枚入れれば、それでよかったんですよ! そうしたらこんなに悩む事もなかったんです!』
「そう怒るなよ、三浦。でも嬉しかったんだろ?」
『なんで口頭で返事するんですか! あなた、ひとり言みたいになってておかしいと思われますよ!?』
「だったら自分の口で返事しろよな」
「うるさいですね! 俺は怒ってるんですよ!」
溜まりに溜まった怒りを口にすれば、その声はフロア中に響き渡った。周囲の社員や隣の部署人間まで、何事かと一斉に三浦を見つめている。
「落ち着け三浦、声がでかいぞ」
のんびりした声で諭すように言われ、頭を冷やすために席を立った。
(なんなんだ! あの人は!)
怒りにまかせて歩いていると、背後に気配を感じた。振り返れば、そこにはきょとんとした遠野の顔があった。恥ずかしいやら悔しいやらで、三浦は顔を真っ赤にする。
「なんで付いてくるんですか!」
「いや、俺はタバコ」
「ああ、そうですか! 失礼しますっ」
三浦はそのまま売店を目指す。そこでアイスコーヒーを買い、休憩用のベンチに腰を落ち着けた。
(はぁ、こんなに怒る事もなかったのかな……)
少し頭が冷えた三浦はそんな風に考える。あの時トイレの個室で大声を上げた瞬間、また遠野に唇を塞がれた。
――これっ、遠野さんが置いたんですか!
――まぁ、そうだが。いらないなら、これは俺が持って帰る。
そう言って彼が取り戻そうとするのを、三浦はさせなかった。驚いても怒っても、嬉しいのは事実だった。さっきまでの怒りはただ照れくさかっただけで、そんな事を遠野は全く気付かない。
「……鈍感」
ため息を吐いてコーヒーをひと口含んだ。
合い鍵を寄越してきた遠野の気持ちを考えながら、三浦は悩んでしまう。鍵を渡すという事は、いつでも尋ねていい、という意思表示なのだと思っいる。しかし、家主が居ない間に勝手に入るのは気が引けた。かといって、今から行きます、と言ってから家へ行くのもおかしな気がする。
「合い鍵を使うタイミングって、……いつだ?」
妙なことになったな……と思いつつ、飲み終えた紙コップをダストボックスへ放り込み、三浦は自分の席へと戻った。
合い鍵を貰ってから一ヶ月が過ぎた。仕事は相変わらず忙しくて、遠野の家の鍵はまだ活躍していない。どうしたものかと悩みながら、スーツの内ポケットに入っているキーケースを取り出した。
自分の家の鍵が付いたその隣に、遠野の家の鍵がぶら下がっている。隣同士に並んでいるのを見るだけで、なんだか嬉しくなった。こんな事で三浦が心踊らせているとは、彼は想像もしないだろう。
「さて、今日はもう帰るか」
予定していた営業先を何軒か回り、直帰の予定で社内のボードには書き残してきた。取引先の会社を出たのは夕方過ぎだった。時間を確認しようとスマホを取り出すと、メールの受信を見つける。開いてみると相手は遠野だ。
『お疲れ様。今日は直帰だろ? 明日は休みだし、よかったらうちで鍋食わないか? 材料を適当に見繕って俺の家に向かってくれたら助かる』
簡素にそれだけ書かれてあり、鍋をする事は決定事項のようだった。
「あの人、俺の都合とか考えないのかな」
そう言いつつも、久しぶりに遠野の家へ行ける事に喜びを隠せない。『了解しました』と返事を打って、帰ろうとしていた足をUターンさせ、遠野の自宅へと向かうのだった。
スーパーで鍋用の食材を購入する。鍋の種類が分からなかったので、何でも出来るように基本の材料を揃え、他にも色々とカゴに放り込めば、そこそこの量になってしまった。
「買いすぎたな……」
両手にずっしりとしたビニール袋を持ち、遠野の家へと向かっている。そして途中である事に気が付く。まだ彼が帰っていないという事は、初めて合い鍵を使うという事実だ。改めて考えると無性に照れくさくなり、顔が熱くなるのを誤魔化しながら再び歩き始めた。
遠野のマンションに到着した三浦は、手にした袋を下に置いた。扉の前でキーケースから鍵を取り出す。妙に緊張していてトクトクと心音が早くなり、落ち着かせるために深呼吸をした。ここには初めて来るわけではないが、家主がいない間に入るというのが新鮮で仕方がない。
「お、お邪魔しまぁす」
自分しかいないのに浮かれる気持ちを取り繕うように、そんな事を口にしながら中へと入った。靴を揃えキッチンへと向かう。以前来た時とほとんど変わっていないインテリアは、相変わらず小綺麗に整頓されてある。
「会社のデスクとは全然違うよな」
キッチンへ入り、袋の中身を取り出して冷蔵庫へ仕舞う。他人の家の冷蔵庫を開けるのも、何となく特別な気がして嬉しくなった。想像通り、冷蔵庫の中身はほとんど入っていなかった。しかしそれも遠野らしいな、と思ってクスリと笑う。
彼の部屋に来てからずっと落ち着かない三浦だったが、時計を見ればもう時刻は19時を回っている。そろそろ遠野が会社を出た頃かな、と思ってみるが、連絡は一向にない。彼ならちゃんとメールなり、電話をしてくるはずだが。
「まだ掛かるのかな。それなら準備、しとくか」
そわそわ落ち着かずリビングに座っていた三浦は、立ち上がってキッチンへ入った。冷蔵庫に仕舞ってある食材を取り出し、なに鍋にするか思案する。
(鶏、豚……ツミレ……、何にするかな)
鍋用の出汁も買ってきたので、材料さえ切っておけばすぐに対応出来る。そう思い、鍋の基本材料を切り始めた。
(そうだ、遠野さんち、鍋本体あるんだよな?)
ふと、そう思った三浦は、キッチンの上の棚を開けた。そこにはそれらしい箱は見当たらない。重い物を上に仕舞うとは考えられないので、ならばシンクの下か、としゃがみ込んだ。
「えーっと……」
薄暗い下を覗き込めば、それっぽい箱を見つけた。手を伸ばして引っ張り出すと、少し大きめの土鍋の箱が出てくる。
「あったあった。でも二人じゃ大きいな」
そのまま箱を持って立ち上がると、カツンと床に何かが落ちる音が聞こえた。なんだろうと視線を彷徨わせると、その場所にはそぐわないものが落ちている。
(……ん? なんだ?)
手にして見ると、小さな真珠の付いたピアスの片割れだ。明らかに女性ものだと分かる。それがどうしてこんなシンクの下から出てくるのか、全く理解できない。
(こんな所に落とす事って、あるのか?)
浮かれていた気分が一気に萎んでいった。この部屋に自分以外の女性が来ている事を知らされる。ない事はないだろうとは思っていたが、ここまで生々しく感じるものを見るとは予想しなかった。
手にしたピアスをタイル張りの調理台へと置く。落ち込んでしまった気持ちをどうやって立て直すか考えながら、三浦は鍋の準備を粛々と進め、最後までやりきった。
準備が終われば、今度はピアスの存在がやたらと気になる。女性が入った事のあるキッチンに立っているのが嫌で、三浦はそれを手にして玄関へ向かった。
(これがあるからダメなんだ)
遠野が知らないままなら自分が処分してしまえばいい、そう思って外に出る。色々な事が頭を回り、しなくていい嫉妬で胸を焦がすのはもう嫌だった。
携帯と遠野の家の鍵を持ち、そのままマンションを後にする。近くに公園があったのを思い出し、そこでこのピアスを捨てて、ついでに少し頭を冷やす事にした。
(恋愛初心者じゃないんだから……、こんな事で動揺してどうするんだ)
そう言い聞かせながら歩き、大通りに出た。駅が近い事もあって周囲は帰宅するサラリーマンやOLで賑わっている。大きな交差点で立ち止まり視線を前へ向ければ、その先に見慣れた人物が立っているのが見えた。
「遠野さん……?」
彼の隣には小柄な女性の姿見えて、何やら笑顔で話し込んでいる。ポケットに入れたピアスの存在がずっしりと存在感を訴えてきた。ヒヤリとした緊張感が胃の辺りを支配する。だがそれはすぐ後にズキンと鋭い痛みに変わり、喉の奥が苦しくなった。
三浦は尻ポケットからスマホを取り出して、遠野の番号をタップした。遠くの方で彼がスーツの内ポケットから携帯を取り出すのが見える。
『三浦か? もう家にいるんだよな?』
「いえ……、買い忘れがあって外に出ているんです」
三浦が言い終わった時、信号が青に変わった。溜まっていた人混みが動き出し、遠野もこちらへと近付いてくる。
「遠野さんは今どこですか? 誰かと一緒ですか?」
『いや、……俺は一人だよ。今自宅に向かってるか、ら……』
女性と一緒に歩いてきた遠野と目が合った。電話口で聞こえていた声が黙り込み、三浦はそのまま通話を切った。
「遠野さん、お疲れ様です。もしかしてデートですか? 俺は今から帰るところです」
三浦の言葉に遠野の驚いた顔が怪訝に変わる。意外と冷静に体面を繕えた自分に賞賛の拍手を送りたくなった。
「三浦……」
「あ、すみません、ご挨拶が遅れました。私は遠野の部下で三浦といいます。急に声をかけてしまいまして、すみませんでした」
お得意の王子スマイルを浮かべる。動揺も何も見せないで、仮面のように笑顔を貼り付け、女性に向かって挨拶をした。
「あ、そうなんですか? いえいえ、こちらこそいつもお世話になっております」
女性が深々と頭を下げてきた。セミロングの少し茶色の髪がふわりと胸の辺りで揺れ動く。やさしそうでナチュラルなメイクは清楚な感じだ。少し垂れ気味の目尻と、主張しすぎないルージュは薄いピンクだった。
「それじゃあ、失礼します」
笑顔のままで点滅し始めた信号を走り始めた。
「おい! 三浦!」
背中に遠野の声を聞きながら、足を止める事はなかった。信じられないくらい胸が痛かった。嘘を吐かれた事も遠野の家でピアスを見つけた事も、三浦にとっては相手が女性なら太刀打ちできない相手だ。
結局、ノンケはノンケで、ゲイとは大きな壁があって、それを越えて一緒にいるのは無理なのだろうか、と考える。偶然、恋人にしてもらって、思いがけず遠野の家の鍵までもらい、浮かれていた罰なのかもしれない。
走っていた足が早足になり、次第にゆっくりになった。肩で息をしながら、行く当てがないのに、歩く足を止められなかった。
「知基!」
のろのろ歩いていた三浦は、下の名前で呼び止められ腕を掴まれる。人目も気にせずに大声を出され、三浦は睨むような目つきのまま振り返った。
「待て、どこに行く気だっ」
肩で息をしている遠野の姿があった。どうしてこの人がこんなところにいるのか分からない。信号で振り切って走ってきたはずだ。
「な、なんの用ですか? 俺、帰るんです」
声が掠れていた。おまけにひどい鼻声になっていて、自分でもちゃんと話せていないのが分かる。おかしいな、と思っていると、目の前の遠野の姿がぼやけていった。
「人前で泣くな。綺麗な顔が台無しだろ」
遠野が上着を頭から掛けてくれる。そしてそのまま肩を抱かれ、少し強引に引き寄せられた。人が見ているのに、といえば、コートで顔が見えないから大丈夫だ、とさらに抱き寄せられてしまった。
「説明、させろっての」
彼の言葉を聞いて、もう終わりなのかな、と心の中が冷めていくのが分かった。
そして歩いてきた道を一緒に引き返す。下を向いたままの三浦は、頬を流れる涙としゃくり上げる自分に情けなさを感じている。男のくせに、どうしてこうも泣いてしまうのか。昔はこんな感じじゃなかったのに、と思う。なにもかも、遠野に代えられてしまった自分を感じていた。
遠野のマンションに帰ってくると、そのままリビングのソファに座らされた。三浦はティッシュボックスを引き寄せ涙と鼻水を拭う。拭いても拭いても出てくるので、テーブルの上は丸くなったティッシュの山が出来ている。これでは浮気を疑う妻が泣いているようで、かなり情けない状態だ。
「……いいんです。もう、気を遣わないでください」
「なに言ってるんだ?」
キッチンから出てきた遠野はマグカップを二つ持っていた。目の前に置かれ、落ち着いて飲め、と促される。コーヒーでも紅茶でもない、緑茶だった。
「どうせ遠野さんはノンケですもんね。お、男よりもやっぱり女がいいんでしょう? 分かってたんですよ、そんなこと。俺ってバカですよね……」
「だから、どうしてそうなるんだ」
ズズっと鼻をすすり、ポケットから真珠のピアスを取り出した。そっとテーブルに置いたが、遠野には見覚えがないのか反応が鈍い。
「これ、何だ?」
「遠野さんの……、キッチンで、見つけました……」
彼はピアスを手に取り、ジッと何かを思い出しているようだった。前に付き合っていた彼女か、それとも最近この部屋に呼んだのか。
これで本当に最後になるのなら、傷が浅いうちに終わりを告げて欲しい。もう辛い気持ちのままこの家の中にいたくなかった。
「ああ、キッチンか。どうりで見つからないわけだ」
思い出したのか、彼の顔には笑顔が浮かんでいる。どうしてこんな時に笑えるのか、神経を疑う。今は仮にも三浦が恋人のはずだ。その恋人の前で、女性もののピアスを出されて微笑む神経が理解できない。
「俺、帰ります。話も聞きたくないですし、もういいです。……やっぱり部署移動願を、もう一回……」
「知基、何か勘違いしてるだろ」
「……言い訳は聞きたくないです」
三浦はそういって立ち上がると、遠野も立ち上がった。そして、帰らせないぞ、と言いながら近寄り、三浦を座らせるようにして一緒に隣へ腰掛けた。
「このピアスは去年、知基の前に俺の部下だった女性のやつのだ。この家で部下何人かと忘年会をした時に、片方なくしたと言っていた。その片割れだな」
「忘年会……、部下……?」
懐かしいな、と言いながら手にしていたピアスをテーブルに戻す。そしてさっきの女性だがな、と話し始めた。
「興亜物産の営業の人だ。この辺りに実家があるらしくてな。信号待ちをしていたら声をかけられた。つい最近までやりとりしていたのをお前だって知ってるだろ?」
ポンポン、と背中を叩かれる。遠野はソファの背もたれに体重を掛け、その背に腕を乗せた。
「興亜……物産。営業の人……?」
「そうだ。何か勘違いしたんだろうと思って、すぐに追いかけたんだが。信号に引っかかってな。お前、俺に説明する時間もくれなかったもんな。それに、俺たちの事を見ながら電話しただろ。嫉妬したのか? 知基」
「だ、だって! 一人じゃないのに一人だって、嘘を吐くからじゃないですか!」
「いやいや、信号待ちをしてる途中まで一人だったよ。というか、彼女は渡って右、俺は左に別れるんだぞ? 近所の人と会ったようなもんだ。そもそもが仕事上の知り合いなのに、そんな説明すら出来ない短い時間だったろうが」
困ったヤツだな、と彼は肩に手を乗せ体を引き寄せられる。傾いて倒れるように彼の胸の中に体を預けた。
「どうなってんだ、お前。なんでそんなにかわいいんだよ」
「う、うるさいですっ。遠野さんには、分からないんですよっ!」
必死に逃げようと体を起こしに掛かると、そのまま捕まり抱きしめられた。そして何度も何度も、かわいいなぁ、と繰り返される。結局、独りよがりの嫉妬と思い込みで泣いていただけだった。
「俺が、お前に隠れて浮気できるような、そんな器用な人間だと思うか?」
「…………思いません」
「だよな」
「すみません……。俺、こんなんで……ウザくて……」
ぐすぐすと鼻声で呟くと、遠野は頭にキスをしてきた。そんなところもかわいいんだけどな、と言いながら、あやすだけの口付けが次第に熱を帯びてくる。
「なあ、今日の鍋はスッポンにしないか?」
「え? スッポンなんて買ってませんよ。そもそもあんなの、スーパーで買えるんですか? それに普通の鍋じゃ……」
その説明をしていると、微かに彼の肩が揺れているのに気付いた。何事かと見上げると、やさしい眼差しでこちらを見つめている。
「お前の鈍感は天然か? スッポンって言ってるんだぞ?」
「スッポ……、なっ! なんですか! もう!」
恥ずかしくなって顔を真っ赤に逃げようとあがけば、鍋の前にお前を食べる事にした、と遠野の言葉が聞こえてきた。
「遠野さんのバカっ!」
どんな鍋でも出来るように考えていた三浦だったが、さすがにスッポンはリストに入っていなかった。これ以上、彼に精力を付ければ三浦の体が持たないだろう。ただでさえ馬並みなのだから。
「バカでもなんでもいい。俺はお前だけなんだって事、今日は朝まで教えてやるよ」
リビングで抱きしめられていた三浦は、それは嫌だ、と暴れても押さえられた。準備万端のキッチンを通り過ぎて寝室へと連れ込まれる。
その鍋が二人の胃の中に入るのは、翌日の夕方だった。
【END】